トラックは南からマジダル・シャムス村に入ると、村の西側にある一番最初のロータリーのところで止まり、二人はそこで下ろされた。
 隼介は、車の荷台から降りるとすぐにドルーズ人のドライバーに礼を言いにトラックの前に回り、「サンキュー」と言って手を差し出した。
 するとドルーズ人のドライバーは、隼介の握手に応えるためにわざわざトラックから降りて手を差し出してくれたが、握手が済むと「これからどこに行くんだ」とカタコトの英語で隼介に尋ねた。
 「ここから歩いてバニアスまで下りるつもりだ。そんなに遠くないし下り坂だから大丈夫だ」
 隼介がそう答えると、ドライバーはそこから西に向かって下っている道をアゴで杓った後「あっちだ」と教えてくれた。そして、二人に向かって「グッドラック」と言って手を右手を上げるとトラックに乗り込み、再び勢いよく車を発車させて村の奥に向かって走り去っていった。
 この村は、目に入る範囲だけでも1キロ四方以上はありそうな大きな村で、隼介達が下ろされた場所からなだらかな山の斜面に沿ってずっと上の方に向かって広がっていた。
 隼介は、1月に行ったブクァタ村にしてもそうだが、イスラエルに残されたシリア人の部落には少なからず興味があった。だから、もしチャンスがあれば一度ゆっくりドルーズ人部落を歩いてみたいと思っていた。そうすればきっと何か面白い発見もあるだろうし、ブクァタ村の居酒屋のオヤジのように、隼介が日本人だと分かれば興味を示して面白い話も聞けるのではないかという期待もあった。
 しかし、そんなことを思ってはいても、口に出して喋ることはできなかった。
 側に立って落ち着かない様子のファニーの顔を見れば、その場所が彼女にとってどれだけプレッシャーを受ける場所なのか一目瞭然だからだった。
 「ねェ、シュン。すぐそこに上にあがっていく道があるでしょ。あの道を5、6キロくらいかなァ、山頂に向かってずっと上がって行くと、この国で唯一のスキー・リゾートがあるの。私はまだ一度もスキーをしたことがないのでよくはわからないけど、まだこの時期だと十分スキーが楽しめるはずよ。どォ、あなた行って見たいんじゃない?」
 ファニーに言われて見ると、そこから200メーターほど下ったこの村の西の入り口にあたる場所で、下から上がってきた道から分かれて、山の斜面をはうようにして山頂にむかって伸びている道があるのがわかった。
 「えッ、あれがスキー・リゾートに上がる道なの・・・」
 いつぞやケニーがヘルモン山のスキー・リゾートのことは話してくれていたので知っていたが、山に上がる道はもっと西の、どこか安全そうな場所から上がるものとばかり隼介は思っていたので、その道がそうだと聞かされて少なからず隼介は驚いた。
 「見えるでしょ。このすぐ上の、ヘルモン山の山頂から続く尾根の線が、あれがゴラン高原とレバノンを分けているの。シリアとの非武装地帯のラインは、10キロちょっと尾根に被さってるから、シリアはヘルモン山の山頂の少し右側から向こうね。ここからだと随分近いでしょ。・・・それと、シュンは知ってるかしら?スキー場のすぐ上の尾根の反対側には、イスラエルが長期間駐留を続けるため、常に係争地になるシェバ農場の入り口であるシェバ村があるの。だからこの山の周りは軍事的に見ても重要な場所ね。・・・テロリストのミサイルもサウスレバノンから簡単に届く距離だし、そう考えたら長く居る気にはならないでしょ?さァ、ぐずぐずしてないで早く下りてしまいましょ」
 ファニーはそう言ってさっさと歩き出してしまった。
 隼介の方は、「怖いもの見たさ」のような好奇心が久々に湧き上がってきたが、ファニーが後ろも振り返らずにどんどん下っていくものだから、慌てて後を追いかていくしかなかった。

 それから村から遠ざかってしまうまでの間、ファニーは何も喋らずひたすら隼介の前を歩いた。
 隼介の方は、最初は駆け足のようなスピードで歩くファニーに仕方なしに合わせてついて行っていたが、その内に呆れたような顔をして立ち止まると、持ってきた水筒を取り出し口に運んだ。朝キブツのダイニングで良く冷えたオレンジ・ジュースを入れてきていたので、それを旨そうにゆっくり二口三口飲むと、今度はファニーを無視するように自分のペースで隼介は歩き始めた。
 春が近づいていて朝から天気も良く、遠くまで見通しがきくこの高台の道を歩く気分は爽快だった。
 そんな絶好の場所を、まるでどこからか逃げるようなスピードで歩くファニーに合わせて歩くことが、隼介はどうも気に入らなかった。勿論隼介の心の隅には、この緊張した土地とは全く無関係な平和な場所で生きてきた者が簡単に抱く愚かな偶像が映っているのだろう― という認識はあるのだが、それでもやはり目の前にある現実があまりにも長閑で平和に見えてしまうと、やはり自分としてはこの絶景をノンビリ味わいたいという気持にどうしてもなってしまうのだった。
 隼介は、ファニーに着かず離れずしながら、時には立ち止まって景色に見入ったりもしながら、マジダル・シャムス村を出て2キロ半ほど歩いた。ナムロッド要塞もすでに前方に見えていた。
 そして、ニュー・エーティブという小さなコミューンの手前の大きなカーブを曲がると、やっとファニーも安心したのか立ち止まると後ろを振り返った。
 「ごめんね、シュン。外国人を連れて一人でこんな場所を歩くことなんて初めてだし、それにどうもなんていうか・・・」
 「あァ、わかってるよ。無理をいってこんなところまでひっぱてきた俺にも問題があるんだから・・・。それより、もう安心したかい?」
 ファニーは「えェ、もう大丈夫。すぐそこに仲間がいるから」と言ってニュー・エーティブを指差して笑うと、やっと隼介の側まで来て腕を絡めてきた。
 「シュン、気がついていたと思うけれどあれがナムロッド要塞の跡よ。ここから見ても、あの遺跡は相当大きな物だってわかるでしょ」
 要塞から直線距離にして3キロほどのところに二人は来ていた。十字軍が13世紀に築いたナムロッド要塞の全容が、隼介にも見えかけていた。
 「あの遺跡は細長くて、こちら側のノーザン・タワーから向こうのサザン・タワーまで400メーターほどあるの。幅は広いところで60メーターあるかないかだと思うわ。昔は城壁でぐるりと囲まれてさぞ頑丈な要塞だったんでしょうけど、今は殆んどが崩れ去ってしまってるわ。・・・でも、ノーザン・タワーやサザン・タワーの低層部分にある部屋はいくつか原型を留めて残っているらしいから、それは見る価値があるわ。さァ、あと4キロ位かな?頑張って歩きましょ」
 道路の方は山の斜面に沿って曲がりくねっているので、まだその先距離は4キロほどあったが、やっとピクニックらしい雰囲気に戻れて隼介は嬉しかった。
 


 隼介とファニーは、ニュー・エーティブから45分ほどかかってナムロッド要塞へ上がる道の入り口に着いた。
 この入り口は要塞の北東側の斜面の下にあるが、ここから見ると、要塞は下から急激に駆け上がってきた尾根がそこで400メーターばかりなだらかになっている場所を使って築かれていたことがわかる。
 そして、この要塞の現在の入場門になるサザン・タワーやサウスウエスト・タワーといった建物の一群は、この入り口とは反対側の要塞の南西面にあり、勾配の急な南側の斜面に作られた車で登れるなだらかな道を500メーターほど上がったところにある。
 隼介とファニーは、4、5メーターの高さを残して上の部分が崩れてしまっている城壁や円形状のタワーを珍しそうに見上げながら要塞の西の端まで上がると、今度は西から南に広がる雄大な景色に思わず見とれてしまい、暫くは要塞にも入らずそこに立ち尽くした。
 「これはなんとも素晴らしい眺望だね。ゴラン高原から南のガリリー湖辺りまですべて見渡せるじゃないか。これだったらどこから敵が攻めて来てもすぐにわかってしまう・・・」
 隼介は、この要塞を築いた十字軍の故郷であるヨーロッパに、今も残る中世の城をダブらせていた。自分が実際に見た何ヶ所かのヨーロッパの現存する城も、やはりこの要塞のように裏山を壁にして見通しのきく高台に築かれていた。
 1095年から始まった十字軍の遠征は200年以上続いた。聖地エルサレムのイスラムからの奪還という大義名分ではあったが、そのくせ十字軍は各地で虐殺や略奪も繰り返した。イスラム教徒や十字軍に苦しめられたヨーロッパのユダヤ人からすれば、その行いは侵略軍に等しかった。その上エルサレムを奪還した後彼らは、こういった要塞を中東の各地に築いて、十字軍国家と言われるものまで築いて長年に渡り居座り続けたのだった。
 「さァ、もういいでしょ?中に入ってみましょ。・・・だけど誰もいないわね。まったく貸切じゃない。まァ、旅行のガイドブックにもそれほど大きく載っているわけでもないし、わざわざこんなとこまで来る人もいないか・・・」
 ファニーは、そう言うとさっさと中に入って行ったが、中に入るといっても城門らしきものはない。勿論どこかに昔の本来のメイン・ゲートはきっとあるのだろうが、これだけ大きな要塞だとどこにあるのかもわからないし、現在も残っているのかもわからなかった。だからファニーは、サザン・タワーとサウスイースタン・タワーの間にある誰でも入れる道を、何の遠慮もない顔をして城壁の中に入って行った。
 貴重な遺跡であることは間違いないだろうが、それにしても特別管理されている様子も見られず、イスラエル人にはそれほど興味のない遺跡なんだろうか― と、隼介はその姿を見ながら思った。
 「中に何かいいものでもないか先に見ておいてくれ」
 隼介は、ファニーが遠くに行ってしまう前に大きな声でそう叫ぶと、ファニーの姿が中に消えても暫くはそこに立って南西面の残った建物の様子を観察した。規模からすると、昔は相当大きな要塞というよりも城だったと思われるのだが、今は殆んどの建築物の上の部分は崩れ落ちてしまっていた。それでも右側の角にあるサザン・タワーや、サザン・タワーよりもやや高い位置にある左側のサウスイースタン・タワー。それにその側のサウスウエスタン・タワーは、そこから見える範囲でも明り取りの窓や覗き窓などの石組みが崩れずにそのままの状態なので、きっと内部も昔のままの状態が保たれている可能性を感じた。

 「シュン、早く来てご覧なさいよ。凄いわよー。ここって、本当にまだ内部がしっかり残っているのね。表面には出ていないけど、この下にはまだ沢山の部屋が残ってるみたいだわ」
 サザン・タワーの裏手からファニーは顔だけ覗かせて、興奮したようにそう言って隼介を手招きした。
 隼介は、ファニーの興奮した態度とは裏腹に、「あァ、わかった。今行くよ」と、妙に醒めた態度で頷くと、ゆっくりとサザン・タワーに向かって歩き出した。
 「ほら、ここから下の部分はそれほど壊れていない感じでしょ。ここから中に入れるわ、入ってみましょ。・・・だけど、本当に凄いわね昔の人って。こんな高いところにこれだけの石を運んできて建物を築くんだから」
 ファニーは妙に感心した様子で石を積み重ねて作った部屋や空間を見回していたが、隼介が「これはゴシック建築といってね、石で組んだ部屋の入り口や覗き窓の上の部分が尖った形をしてるだろ。それがゴシック建築の特徴なんだ。天井も高くて丸いね。きっとヨーロッパから多くの石職人が連れてこられて築いたんだろうね」と説明すると、ファニーは大袈裟に感心したような仕草で隼介を振り返っていた。
 そこには、すでに天井が崩れ落ちてしまった大きな空間や、祭壇のようなものがある部屋もあった。隼介は、それらをひとつひとつ珍しそうに見ながら奥に進んだが、西面にある床が一段高くなった権力者のためのスペースがある大きな部屋の覗き窓のところまで行くと、石組みだけで出来た覗き窓から外を覗いた。その覗き窓は、日本のお城の城壁にも見受けられるような攻撃と防御を考慮した幅の狭い縦長の作りになっていて、勾配の急な斜面を駆け上がってくる敵をここから弓で狙ったのだろうと想像できた。 
 「この部屋に居たら、まるで昔にタイム・スリップしたような感覚になってしまうわね。それにここと反対側の奥の方には、どういう仕組みになってるのかわからないけれど、ちゃんと水が引き込まれていて大きな水貯めの設備まであるわ」
 ファニーは一通り辺りを覗いてきたのか、側に来てそう言って隼介の肩に手を回して外を覗くと、すぐに今度は隣にある大きなニッチに首を突っ込んだ。
 隼介は、そうやってこまめに動き回るファニーの姿が、これまでの彼女のイメージよりも大胆なものだったので、暫くは呆れた顔をして見とれてしまっていた。
 「ファニー、驚いたよ。目新しい物に対する好奇心は、どうも俺よりも君の方が強いみたいだな。キブツに居る時の君とは別人のように生き生きしてるもんな」
 ファニーはそれを聞くと、ちょっとだけ白い歯を見せたが、すぐに興味なさそうに隣の今度は燭台置場のような壁の穴を珍しそうに覗き込んでいた。

 「・・・その点俺は。どっちかというと歴史や造形物には正直あまり興味がないうえに、宝石の価値にも疎い人間でね。だから、どちらかというとこんな場所に来ると、色んな事をイメージしたり想像したりするロマンチスト・タイプなんだな。例えば、そこに昔権力者の椅子があったんだろうけど、どんな厳つい顔の男が座っていたかとか想像すると、非常にロマンスがあるよな。そんなロマンスとの出会いを求めて世界中の多くの若者は、勝手気ままなる旅に憧れるんだろうけど。・・・まァそれは、旅をしている者のみが感じるエクスタシーにも繋がっている― とでも言えるのかなァー?ウン!」
 「シュン、何をまったく訳のわからないこと、一人でぶつくさ言ってるの。えェ、えェ、勿論エクスタシーは私も早く経験してみたいわ。それを私も旅先で味わいたいから、だから私も今月末に兵役が終わったら、お金を貯めて旅に出るの。どこに行くかは決めてないけど、今からワクワクしてるわ」
 「あァ、そうだったな。そうだそうだ、君も旅に出るんだよな・・・。それでだけど・・・」
 隼介は、その後に続けて何かを言おうとしたが、急に口にしようとしたことで緊張を覚えたのか、テンションが上がってしまい言葉が少しづつシドロモドロになっていった。緊張すると少しどもる癖のある隼介は、思い留まったようにそこで言葉を呑み込むと、なんとか落ち着こうと覗き窓の外に目をやった。そして、暫く固まったように外をみていたが、その内に決心がついたのか今度は真面目な顔になって振り返ると「ファニー、そこで提案なんだけど・・・」と口を開いた。
 「どうだい、その旅、俺と一緒にしないか?」
 「えッ・・・」
 ファニーは、好き勝手を言ってる隼介には構っていられないとでも思ったのか、その時には少し離れた小部屋を覗いていたが、隼介が急に言った予期せぬ言葉を聞いて急に振り返った顔は、まるで狐に摘まれたような顔に変わっていた。
 「シュン。それってどういう意味よ?急に変な話を持ち出さないで・・・」
 「変な話って・・・。俺はそんな変な意味の話なんてしていないよ。君が今月末に兵役が終わったら、その後に一緒に旅をしないかって誘ったんじゃないか・・・」
 「ちょッ、ちょっと待ってよ。あなたは来週にはヨーロッパに帰る身でしょ。それに、私の兵役が終わるのが今月末でも、私にはすぐに旅に出れるようなお金なんてないわ。せめて飛行機のチケットを買えるようになるまで半年はかかるし・・・。それも、すぐに良い仕事が見つかったらの話よ。だから、そんな立場の私に、簡単にそんな話を持ちかけないでほしいわね。それに・・・」
 「あァ、勿論わかっているさ。俺だってこれからオランダに帰ってすぐにでも仕事をしないと、次の行動に移るためのお金はない。でも、お金が出来たらイギリスに渡るから、そこで俺は待ってる。・・・で、後は二人で頑張ればどうとでもなるもんさ」
 ファニーは、急に思ってもいなかった話を隼介に持ち出されて、暫くは言葉に詰まって隼介の顔を見ながら立ち尽くしていたが、その内何を思ったかプイっと顔を背けると、そのまま黙って外に出て行ってしまった。
 「何なんだ、あれ?俺、そんなに怒らすようなことを言ったかなァ?」
 自分のファニーに対する気持を素直に伝えたつもりの隼介は、返事もせず黙ったまま出て行ったファニーの態度が気に入らなかったのか、わざわざ日本語で口に出してそう言った。



 南西側にあるサザン・タワーなどの建造物の一群から、北東側にあるノーザン・タワーまではざっと300メーターほどの距離があるが、この両極の建物の一群は山の尾根のこぶのような場所を利用して築かれている。
 また、サザン・タワー側にいてノーザン・タワーを望むと、ノーザン・タワーはサザン・タワーよりも随分高い場所に位置し、現在も原型を留めている低層階部分を見ただけでも、昔ノーザン・タワーはよく映画に出てくるような西洋のお城のような建物だったのだろうと想像できる。
 そして、この双方の建造物を繋ぐ300メーター程の距離の城壁に挟まれた部分は、南面も北面も急勾配な尾根部に築かれているため50メーター程の幅しかない。ただ、やや勾配の緩やかな南面の城壁沿いには多くの設備や防御用の円形のタワー跡などが集中しているのが見うけられるが、反対に北側城壁下斜面は絶壁に近い急斜面となっているためなにもなく、北側の防御は当時手薄だったことが想像できる。
 隼介は、暫くしてファニーを追ってサザン・タワーを飛び出すと、ファニーを探すためにサザン・タワーよりも高いサウスイースタン・タワーに駆け上がった。そこからだと800年近く経って荒れ果てた要塞内部の殆んどの場所が見渡せた。崩れた石がいたるところに散乱し潅木がいたるところに生い茂った様は、隼介にはあまりにも寒々しく思えた。
 「こういう情景を見ると、日本人は詫びだとか錆びだとかとか言いながら、荒城の月なんて歌を歌いだすんだろうな」
 隼介はファニーのことなどどうでもいいような顔つきになると自分の口から出た言葉に一瞬口元を緩め、抑えたような小声で荒城の月を口ずさみ始めたが、50メーターほど先のノーザン・タワーに繋がる北壁沿いの小道にファニーの姿を見つけると歌うのを止めた。
 「なんだ・・・。あいつ、あんな所にいたのか・・・」
 ファニーは、城壁にもたれる掛かるようにして立ち、西の方角をじっと見つめて物思いに耽っている感じに見えた。
 「やれやれ・・・。お嬢さん、あそこでいったい何を考えているのかねェ?」
 隼介は、ファニーの居場所がわかると、今度は小声で何かぶつくさ言いながらファニーの方に向かって歩き始めた。
 しかし、ファニーに近づくにつれ、どうも彼女の様子が今までと違うことに気づくと、今度は戸惑ったように急に歩みを緩めた。
 すでに近づいて来る隼介がわかっているはずなのに、顔を向けようともしないファニーの遠くを見続ける眼差しは、あまりにも悲しそうに隼介の目には映った。それは、これまで隼介が一度も見たこともないようなファニーの姿でり、隼介は驚いたように顔をしかめたが、隼介にはいったい何が起こってしまったのかも理解もできなかった。
 それから暫く隼介は、声も掛けられなくなってしまった自分を持て余すように近くで立ち尽くしていたが、そのうち側で立っていること自体にも気まずい雰囲気を感じ、その内今度は辺りを見回して近くにあった手頃な石を見つけそこに腰を下ろした。
 どうしちゃったんだろう?― 隼介は、ファニーのあまりにも突然な態度の変化に、自分が関係してるのか自問自答を何度か繰り返してみたが、その内に面倒くさくなったのか足を組んで頬杖を突くと目を閉じた。
 もう春と呼んでもいいのにヘルモン山から吹き降ろす風は冷たく、石から伝わる冷たさが急速に体温を奪っていくのがわかった。
 
 
 
 「歴史・・・って、色んな教訓を教えてくれる教科書だけど、反面色んな・・・、時として嫌な記憶も刻んで残していくのよね。それに・・・、何千年も前の事にしても、完璧な確証がある訳でもないのに、人類はその話を末代まで語り継いだりもするのよね・・・。まァ、シュンのように、平和な国で生まれ育った人間には、そういった話は関係ないかもしれないわね・・・」
 ファニーがそう言って口を開いたのは、それから5分も経った頃だったろうか。
 気を利かせているつもりで黙っていた隼介だったが、寒さにも体が馴染んでくると、朝が少しばかり早かったせいか少し眠気を覚えて意識が薄れかけていた。そんな時に急に話しかけられたものだから、隼介は無表情な顔でファニーの方に振り向いた。
 「シュン。シュンは知ってる?昔、ヨーロッパから攻め込んで来てここにこんなものを築いた人達は、私達ユダヤ人を裏切り者と罵り、自分達の神を売った人間だって蔑んだわ。千年近くも前によ・・・。事実かどうか、誰も証明できない2千年も前にあったことが、この地で沢山の血を流す結果になったし、未だに私達ユダヤ民族を苦しめている一因にもなっているのは知っているでしょ?私達ユダヤ人は裏切り者扱いにされ、どこに行っても、いつの時代でも嫌われ者だったわ。・・・私はね、そのユダヤ人なのよ」
 「            
 「あなたは、私がそんなユダヤ人だとわかってて、私に一緒に旅をしないかなんて言ったの?」
 ファニーは、隼介の顔を見ずに、相変わらず遠くを見つめながらそう尋ねた。
 「えッ?ごめん、よく聞き取れなかった」
 隼介は、あまりにも唐突な話を急に持ち出されて動揺していた。
 「シュンはね、さっきのこと本気で言ったかって聞いたの?」
 ファニーは、隼介の方に向き直ると、怒ったような顔で隼介の顔を睨み返した。
 「・・・あァ、勿論そうだとも。今の俺の素直な気持を言っただけだよ。だって俺には、もう君と居る時間が1週間しか残されてないんだよ。この国に来て君という女性に出会って、このまま永遠にお別れなんてあまりにも寂しいじゃないか。・・・俺はね、君との時間をもと沢山持てればいいなと思ってる。そうするには、君に出て来てほしいんだ、この国からね。それに、勿論全ては偽りのない気持だよ。だからそんな怖い顔で見るなよ」
 隼介は、ファニーの目を真っ直ぐ見つめ返しながらそう応えた。
 「そう・・・。でもシュンは、肝心なことが何もわかってないんじゃない?私がユダヤ人という意味や、仮に私と人生を共にするとすれば、そこにどれだけの困難が待ち受けているかも・・・」
 「えッ・・・?君はやけにユダヤ人だということを強調してるようだけど、ユダヤが何だって言うんだい。そりゃァ俺もユダヤ人の色んな話はこれまで沢山聞いてきたさ。だけど、少なくても俺は、君が俺とは違う特別な人間だとは思っていないよ。それに、俺には君がこの国の古い考えを持った年寄り連中のように、保守的で、頭の固い人間とも思っちゃいない」
 そう言いいながら隼介がファニーに向けた目は厳しかった。

 「私達ユダヤ人のことは、そんな簡単で単純に言えることじゃないの。私は・・・、私達の血は、今更そんな簡単に変えられるものじゃないわ。ユダヤというレッテルは、一生私から剥がすことは叶わない重いものなの。・・・それにね、仮にもし・・・、もしよ。私が改宗してユダヤを捨てたとしても、今度はそこからまた新たな問題に苦しめられるのは、わかってるの。シュンは、私達が長年背負ってきた苦しみや辛さを全然わかっていないから、そんな簡単に好き勝ってが言えるのよ。私は、紛れもないユダヤ人なんだから・・・」
 ファニーはそう言うと、悲しそうに目を伏せた。
 「ファニー、そんな悲しそうな顔は見せないでくれ・・・」
 隼介は、ファニーの側まで行き城壁に飛び乗り振り向くと、ファニーの顔を覗き込んで笑いかけた。
 確かに隼介にもファニーの心情は理解できないではなかったが、隼介にはこれから確り伝えなければならない思いがあった。そのことを考えれば、今大事なのは同情よりもむしろ厳しさであり、ファニーが被っている硬い殻を破るための前向きな姿勢だと思っていた。
 「・・・で、いったいユダヤの何がいけないって言うんだ?確かにユダヤ民族は、今も昔も人類の歴史に華々しく登場し続けているよな。古くはキリストを売ったユダの話があり、中世から現代にかけては世界中の金融や宝石、ビジネスの中心的立場にいる姿がよく目立つ。そのせいかどうかは知らないけど、ユダヤ人は世界を操ってるとも言われるよな。それに・・・、そうだアインシュタイン博士やビル・ゲイツ、スティーブン・スピルバーグのような偉大な知識人や文化人も沢山輩出しているって事実もあるじゃないか。確かノーベル賞受賞者の15%はユダヤ人らしいね。そんな凄いことだらけのユダヤ民族に、君が劣等感を抱く理由はいったい何なんだ?ユダと言う名の、君と同類と思われる男がキリストを売ったことか?ヒットラーが、とてつもない財力と情報網を持ってしまった余所者のユダヤ人を恐れアウシュビッツの悪夢を行ったように、嫌われ者、厄介者として扱われたことか?それとも、他民族の中にあってもユダヤ独特の姿勢を曲げないできた自分達の頑固さに対してか?自分達が排他的なとこか?選民思想とかいうやつか?・・・やっぱりユダヤの血か?俺にはよくわからないけれ ど、どうして君はそんなにユダヤに固執するんだ?」
 「            
 「魔法のような力を持ったキリストの存在なんて、俺は会ったこともないしキリスト教徒でもないのでよくわからないんだ。それに、2千年も前に起こったユダという男が絡んだ出来事の確証なんて、いったい誰が言えるんだ?・・・それから、今の財力を持つユダヤ人の礎とも言えるのかなァ?・・・たぶんそうだと思うけど、キリスト教徒の国でユダヤ人が金貸しを始めて財力を持った経緯を、君は知ってるか?あれはね、昔利息を取るという行為を軽蔑したキリスト教徒の社会で、職業選択を制限されたユダヤ人に許された数少ないビジネスのひとつが金貸しだったから、ユダヤ人がそれに手を染めただけなんだ。金貸しなんて商売、今の社会を見ればどうってことないの、わかるだろ。だからね、そんなことは、当時ユダヤ人を差別するための口実に過ぎなかったんじゃないか?ユダヤ人って、時代に余りにも翻弄され過ぎたんじゃないのかな、違うかい?俺には、余所者で立場的には弱者だったユダヤ人が、白人連中に体よく勝手に好き勝手言われてきただけじゃないかって気もするんだけどね」
 ファニーは、相変らず下を向いたまま何も応えなかった。
 
 隼介は、黙りこくったままうなだれているファニーが意地らしくなってきたのか、城壁から飛び降りるとファニーの前に持ってきた水筒を置き、今度は地べたに座り込んでファニーの顔を見上げた。
 「勿論俺は、君がユダヤ人だからユダヤの味方をして擁護ばかりするつもりはないよ。実際君たちユダヤ人も余所者という立場で生き抜くためだとはいえ、選民思想だの排他的と言われるような、あまり他民族に好かれないような面があったことは否定できないからね。異教徒の国で余所者がそんな態度をとれば、反感をかうのは当然だし、そのことが根も葉もないような話をでっち上げられる原因になったりもしただろうからね。・・・徹底的なユダヤ人迫害や差別がヨーロッパで始まったのは、確かこの要塞が出来たころじゃなかったかな?イエスを救世主と仰ぐキリスト教徒主体のヨーロッパで、ユダヤ人はイエスは救世主ではないと否定したんだもんな。反感をかうのはしかたいことだ。それに、生き抜いていくために、ユダヤ人は現地人よりも高い教養や知識を身につけることも必要とした。そんな諸々なことが、逆に差別や迫害、反発を生んだ。・・・但し、それは長い過去の歴史においてだ。・・・でも今は、21世紀になろうとしてる時だよ。そんなこと言いたい奴に勝手に言わせておけばいいんじゃないか?」
 隼介は、思い立ったようにポケットからチョコレートを取り出すと半分に折り、片方をファニーの手に握らせると、そのままファニーの手を両手で包み込んだ。その手は冷え切っていて、隼介は切なかった。
 「この俺だって有色人種だよ。世界を歩き始めて、露骨な差別にあったことは今まで何度もある。直接態度で示されない場合でも、冷たい視線というのはすぐにわかるもんだ。今、エルロームにいる連中だってそうさ。俺以外皆白人だろ。仲の良いポールなんかは別だけど、たまにこんな小さな社会でもそれを感じることがあるくらいだ。・・・差別意識を持つ連中なんて、俺から見れば本当に最低の人間だけど、人類が立って歩き始めてからというもの、そんな連中がこの世から絶滅したことがないんだから仕方がない。・・・それとね、この前キブツで上映された日本の映画を君も観ただろう。あの時リアットやシャーイが怪訝な顔をして俺を見ていたんで笑っちゃったけど、あれを見たら、日本人にも隠したくなるような話が実際に過去にいくつもあるんだってわかるだろ。身分制度があったこともそうだし、最も下級だった昔の日本の農民は、本当にあの映画のように虫の幼虫まで食べなければならない生活を強いられていたんだ。君達の先祖が露骨な差別を受けていた頃の日本の現状が、同じ頃世界に知れ渡っていたら、日本人だってどんな見方をされていたかわかったもんじゃない。そうだろ・・ ・?」
 「・・・シュン。あなたが言うように、過去のことは、私達が頭を切り替えさえすればそれで済むかもしれないわ」
 小さな弱々しい声でファニーがやっと口を開いたので、隼介は「うん」と頷いて手に力を込めたが、ファニーはなかなか顔を上げようとはしなかった。
 「・・・でも、私達の現実は、それだけで済まされるものじゃないの。私が住んでいるこの国が置かれている現状は、過去のユダヤ人の歴史だけじゃなく民族意識や宗教観のことも全てひっくるめて、複雑に絡み合った上で存在しているの。もしここで私達がその内のひとつでも否定したり変化させてしまえば、私達の居場所はなくなってしまう危険性があるの。・・・ねェ、だからわかるでしょ。現状を維持することが、今の私達にはどれだけ大切かって・・・」
 ファニーはそこまで言うと、顔を上げ、隼介の手を力強く握り返した。

 「私はね、私の家族や友達を心から愛しているし、尊敬もしてるわ。だけど、もし私があなたと旅に出て改宗でもしてしまえば、私は私の愛するもの全てを悲しませてしまうことになるの。・・・それにね、それでも無理をして私が違う道を選択したとしても、私が生き続ける限り私の体の中を流れ続けるのはユダヤの血だし、私のことを周りの人間はユダヤ人と呼び続けるのよ。・・・シュン、この意味があなたにはわかる?」
 「             
 暫くの間隼介は、ファニーが言おうとしていることの意味が呑み込めなかった。
 しかし、その内隼介は薄ら笑いを浮かべて徐に立ち上がると、小石を手に取り「クソッたれ!」と言って力任せに谷に向かって投げつけた。
 「10年経とうが20年経とうが、いや100年経っても、君や君の仲間はユダヤと書かれたバッジを胸に着け続けるつもりかい?君達はそういう民族なのか?だけどな、世界が凄い勢いで変わっているのは、君達にだってわかってるはずだ。ユダヤ人がこの国を興してからの4、50年を振り返って見ても、世界中にどれだけ変革の風が吹いた?文明がどれだけ進歩を遂げたと思うんだ?日本の片田舎育ちのこの俺でさえ、一人で努力して世界中を歩いて来てみると、地球なんてなんてちっぽけなものなんだなって思えるようになったんだぞ。・・・君達はこれだけ凄い国を築き上げた民族なんだから、もっと建設的な気持で、世界に対して自分達の殻を壊してみせることはできないのか?」
 「             
 「・・・いや、それとも、もしかしてあれかい?将来人類が国境をなくして、民族意識や宗教や思想をなくした新しい世界を築こうと立ち上がっても、君達ユダヤ人はこれからも選民思想や排他的考え方に永遠に囚われるつもりか?そうして一宗教を楯に永遠に狭い場所に閉じ篭って、常に何かを恐れながら暮らしていくつもりなのか?変わることなく永遠にね・・・」
 隼介は、強い言葉で、半ば吐き捨てるようにそう言った。
 「FOREVER・・・?永遠に囚われるですって?冗談じゃない、そんな言葉は聞きたくもないわ・・・。私達だって、永遠にこんな現実が続くなんて思いたくもないわ。それに、私だって自ら望んでこんな立場に生まれてきた訳じゃないの。苦しみや辛さを身をもって受け止めている当事者に、FOREVERなんて嫌な言葉を軽々しく使わないで・・・」
 隼介は、その強い非難を込めた言葉を聞いて、「ハッ」としてファニーを見た。
 涙を目に一杯溜めながら隼介を見据えているファニーの顔は、すでに隼介を拒絶したかのような顔に変わっていた。
 そして、その醒めた視線を感じながら隼介は、心の隅に居続けた大事なものがするりと手をすり抜けて、遠いところに落ちていってしまったような空虚な気持に突然胸を締め付けられていた。
 「シュン。じゃあ聞いていい・・・?あなたが私を想うなら、あなたには、ここでユダヤ人になるだけの勇気があって?私と共にここで生きて、この国を守っていくだけの勇気があなたにはあるの?」
 隼介は、その問いかけに驚いたように顔を強張らせた。それは、隼介が一番遠ざけたかった話だった。
 「・・・ごめんよ」隼介はファニーからゆっくり視線を逸らすと、力なく首を横に振りうな垂れた。
 



1985年秋。ロンドン


 「ゲットゥ・アップ ハーリー」
 日曜日の早朝隼介は、案内されて部屋に入って来た男に激しく体を揺すられて、目を覚ました。
 2ヵ月前にロンドンに入りやっと手に入れた仕事にも目処がたち、何とか不法就労でもその仕事を続けていけそうな立場までこぎ付けた隼介は、平日何かと気を使うせいで週末になるとくたくたになるほど疲れていた。
 だからそのせいでその朝も昼近くまで寝坊を決め込んでいたので、断りもなく急に訪れた誰かもわからない訪問者の行為に腹を立て、暫くは返事もしなかった。それに、こんなに早く起きてしまえば、毎週末は昼まで寝て昼食をブランチとして済ませ、それで一食分の食費を浮かせる計算も狂ってしまうので余計に腹立たしかった。
 「おい、起きろよ。折角訪ねて来てやったのに、友の来訪を無視するつもりか?おい、シュン」
 隼介は、どこかで聞いたことのある声だとは思うのだが、眠気が先に立ってすぐには思い出せないでいた。
 「やれやれ、キブツに居た頃は朝だけは強かった男なのに、俗世間に帰るとあんたも体たらくなもんだな・・・」
 隼介は、「キブツ」という言葉でその男が誰かやっと思い出すと、急に頭の回路が動き出したらしく被っていたシーツを思いっきり蹴飛ばして飛び起きた。
 「やー、ポール、君か。いったい誰かと思ったよ。俺を訪ねて来る人間なんてここじゃまずいないもんだから、てっきりここに住んでる連中の誰かかと勘違いした」
 隼介は、ベッドから降りると嬉しそうにポールを抱きしめ、お互い再会を喜ぶように肩を叩きあった。
 「・・・で、ロンドンにはいつ入ったんだ?キブツはいつ出たんだ?」
 「まァ、待てよ。こんなに早い時間だと同室の人にも悪いし、俺も暫くここに厄介になるつもりだから、どうだい朝食をとりにどこかに行かないか?」
 ポールにそう言われて隼介は同室のオーストラリア人のデービットを見た。しかし、確かに彼は煩かったのか起きていたが、気の良い性格の男で、隼介に「気にするな」というように笑いかけるとポールに手を差し出した。

 隼介がロンドンに来て住むようになったのは、地下鉄ピカデリー・ラインのアールスコート駅とグロウチェスター・ロード駅のちょうど中間にある週決めのホテル・アパートメントで、交通の便も良いし何よりも閑静なのが隼介は気に入っていた。それに、アールスコート駅界隈には、飛行機のディスカウント・チケットを扱う旅行代理店や同じようなホテル・アパートメントが多くあり、そのため海外の情報を集めるには好都合な場所で、隼介の住むホテル・アパートメントも住民の殆んどが海外からだった。
 隼介は、ポールと連れ立って、いつも行くアールスコート駅の近くのカフェに入った。このカフェの隣は韓国人が経営するコイン・ランドリーで、毎週末洗濯に出かけては時間潰しにここでコーヒーを飲むのだが、特にここのミート・パイは隼介のお気に入りでもあった。
 「・・・で、ロンドンにはいつ入ったんだ?キブツにはあれから長く居たのか?」
 隼介が腹の底で何を一番知りたがっているのか察しのつくポールは、「まァ、あせるなよ」と言ってゆっくりコーヒーにミルクを入れ一口飲むと、やっと隼介がエル・ロームを出た後のことから話始めた。
 「春になると皆慌しく動き出してね、シュンがキブツを出た後立て続けにイギリス人二人を含む他全員がキブツを離れたよ。だけど俺は、時間的余裕が少しあったのと全員が一挙に入れ替わると仕事に支障がでる心配があるので、結局4月末まで残った」
 そして、その後ポールは、約5ヶ月間北アフリカやヨーロッパ本土を歩き、ちょうどお金がなくなるのを見計らってイギリスに入国して来たようだった。
 「シュン。・・・で、シュンにまず伝えておかなければならない話があってね。もしかしたらそれが、シュンが一番期待して待っていたことかもしれないが・・・」
 ポールはそう言うと、隼介の顔を見て「ニャッ」と笑った。
 「実は、君がよく知っているファニーから伝言を頼まれている」
 白々しい言い方に、隼介は「そういう言い方は止せよ」と言って、わざとらしくふてくされた顔をした。
 「おいおい、シュン。まだあんたは彼女のことを引きづってるのか?・・・知ってると思うが、彼女はあんたがエル・ロームを去って暫くして退役になり、その後どこか?・・・たぶん実家のある街だと思うが、帰っていった。・・・その彼女が、俺がキブツを出る前の週のシャバットの日に、ひょっこりキブツに遊びに来てね。その時に、もしこれから俺がシュンに会うことがあれば伝えてほしいって、わざわざ部屋を訪ねて来て頼まれたことなんだ。俺はシュン達二人の最後のことは知ってるので、彼女が話しに来てくれたことは以外でもあったんだが・・・」
 隼介は、最後にまともに話すことも出来ない別れ方をしたせいで悔いが残っていたが、ファニーがわざわざポールを訪ねてくれたと聞き、少し胸が熱くなった。
 「シュンのことだから、今更何も期待はしてないだろうが、彼女は・・・・」
 隼介は、前置きの多いポールの話を半分聞き流しながら、ファニーの顔を思い出していた。しかし、隼介が熱くなっていた頃のファニーの笑顔はすぐに消え、何故か脳裏に浮かんでくるのは俯いた悲しそうな顔だった。

 あの日ナムロッド要塞で気まずい雰囲気になった隼介とファニーは、そこから6キロばかり下ったところにあるバニアスの滝まで行くにはいったが、その後の二人が再び打ち解けた雰囲気になることはなかった。
 このバニアスの滝の上方には、ギリシャの牧畜の神、パンを祭った神殿が昔あった。今も崖にある洞窟には、ギリシャ文字のレリーフが残っているが、それを隼介のために説明するファニーの態度もそれまでとは違うものに感じられて隼介は辛かった。
 しかし、かといって隼介の方も、寒々としてしまった雰囲気を取り繕うだけの方法は、二人の間にある問題があまりにも大きすぎて何も見つからなかった。だから仕方なく隼介は、ただ冷静さを保ちつつファニーについて歩く以外、何をどうすることもできなかった。
 そして、隼介とファニーはその帰り道、その日キルヤット・シャモナーに出かけていたイツハクが運転する車に運良く拾われてキブツに帰ったのだった。
 それから隼介がキブツを出るまでの1週間、ファニーが隼介を見て微笑むことは一度もなかった。むしろファニーは、自分から隼介を遠ざけているようにも思えた。
 隼介がエル・ロームを去った日も、隼介はその朝早くファニーの部屋を訪ね何度も部屋のドアをノックしたが、ついにファニーが隼介の前に顔を出すことはなかった。隼介は、仕方なしに中に居ることがわかっているファニーにドア越しに別れを告げ、「もし君が将来、僕と同じフィールドに立てる勇気が持てたら、忘れずに連絡をくれ」と言い残してキブツを離れたのだった。
 「・・・最後にきちんとお別れが言えなかったことを、彼女は本当に後悔していたよ。シュンも残念だったろうけど、少し時間が経って自由の身になって、彼女も冷静にものを考えられるようになったんだろうな。・・・そういえばシュンは、確か一緒に旅をしないかって誘ったんだったよな」
 「あァ、だけど見事にふられちゃったよ。嫌だと直接言われてはないけどな・・・」
 「本当は彼女も、そうしてみたいのが本心じゃなかったのか?俺は想像でしか彼女の気持は言えないが・・・。いや、でも待てよ。彼女は俺と話してる時、こういうことも言ってたな。シュンはもう、水を得た魚のように輝いて動き回っているんでしょうね。でもわたしは、そんな人と簡単に一緒に動ける人間じゃない・・・。とか、何とか・・・」
 ポールはそう言うと暫く何か考えているようだったが、その内呆れたような顔になり小さく「フン」と言って笑うと、「そう言ってしまえば、彼女はもう頭から自分の可能性を捨ててしまってるってことになるな。・・・だとしたらシュンには悪いが、俺からすればもの凄く面白みのない女に見えるな」そう言ってしかめっ面で隼介を見た。
 「ポール。イスラエルをもう出てしまったんだから、ここであの人達の悪口を言うのはよせよ。それよりも俺は、キブツでボランティアの皆に聞いたことがなかったけど、もしかしてポールはユダヤ系ニュージーランド人じゃないだろうな?」
 ポールは、「よせよ。それこそ悪い冗談だ」と言って、目を丸くひん剥いて大袈裟に首を横に振った。

 「そうか、ごめん。悪い質問だったかな?・・・どうもイスラエルを出てこっちに帰ってからというもの、これまでユダヤ人には興味もなかったはずなのに、今では彼らを特別意識するようになってしまってね。それに東洋で生まれ育った俺には、名前や顔付きでユダヤ人を見分けることも出来ないし、黒人とアジア人以外どの人を見てもユダヤ人に見えてしまってしょうがないんだ。・・・まァ、はっきりそれとわかるのは、黒服を着た正統派の男性と、週末にキッパーを頭につけてる人間位かな。・・・あァそれと、たまに見かけるダビデの星を首にぶら下げている女性もそうだな・・・」
 「へェー、そんなに違うもんかねェ、日本人は・・・?俺達の国じゃ、居て当たり前としか思わない人達なんだけどね」
 「あァ、違うとも。もし昔から日本にユダヤ人が来て住んでいたら、日本はもっと早く西欧化を進めていたかもしれない。それに、もしかしたらあの戦争を仕掛けることもなかったかもしれないな。・・・いずれにしても、自分でイスラエルを経験したことは、そんなユダヤの良いも悪いも。そして、凄さも改めて認識させられる格好になったようだよ」
 「シュンはまるで、ユダヤは歴史を変える力を持っているような言い方をするんだな」
 「あァ、それだけの凄い民族だと俺は思ってるよ。実は先週のことだけど、南アフリカから来たユダヤ人の中年の男性が、1週間程俺の部屋に滞在したんだ。知ってると思うが、南アフリカで採れるダイヤモンドは、その殆んどがイスラエルで加工され世界中に流通される。そんなビジネスの世界の裏話や、アメリカのユダヤ系実力者達のロビー活動のことを調子に乗って知ったかぶりして毎晩話していたら、最後にはあんたのような塵のような人間が首を突っ込める世界じゃないって怖い顔で注意されたよ。世の中には知らない方が良い話が沢山あるし、命がいくらあっても足らないことに首を突っ込むのは遇者だと言われた」
 「                
 「・・・だけどなァ、ポール。イスラエル以外の国には、俺達にはわからないような化け物のようなユダヤ人も確かに沢山いるんだろうけど、その反面物凄く貧しくても地道に暮らしてるユダヤ人も沢山いるわけだろ。そんなユダヤ人と比べても、あそこに住んでる人達はまったく違う人種だと俺は思う。俺達をキブツで受け入れてくれた人達は、俺達よりも高い理想を掲げ、間違いなく崇高な意識で小さな末端の社会を営んでいるよな。そう思はないか?」
 「あァ、勿論俺もそう思うよ。個性も欲も違う人間が集まって純共産主義的な理想郷を築くんだ。各自がそれだけの人となりでなければそんな大きな仕事は出来ないだろうな」
 ポールは、隼介の顔も見ずに何の感動もないような顔でそう受け答えをすると、ポケットからパイプときざみタバコを取り出し、手馴れた手つきでパイプにタバコを詰め始めた。ここ数ヶ月移動を繰り返していたせいだろう、長く伸びてしまった顎鬚に覆われた顔とパイプを咥える様が、まるでどこかの朴訥な大学教授のようで隼介は可笑しかった。
 「おっと、話が逸れてしまって肝心なことを伝え忘れてた。これだけはきちんとシュンに伝えてくれるようにファニーに頼まれたことがあったんだったな。俺には何のことだかさっぱり意味がわからなかったんで、今じゃ得る覚え程度になってしまったんだけど・・・。えーと、何て言ったっけなァ・・・?」
 ポールは一応考える振りをしてまずパイプに火を点けると、大きく一口吸い込んで吐き出し、それから小刻みにパイプを何度か吹かした。
 「確かこうだったな。今は、FOREVERという嫌な響きにしか聞こえない言葉を、いつか心から喜びに変えて言える日がくるように頑張る。確かそんな意味のメッセージだったな。但し、彼女の英語を俺なりに理解した上でのことだがね。シュンはそれでわかるのか?」
 隼介は、黙ってゆっくり頷いた。
 「あァ、勿論わかるとも。それはイスラエルで暮らす全てのユダヤ人の願いだろうからね。FOREVERか・・・」
 隼介は、イスラエルでの最後のシャバットの夜、春から兵役に就くと言う、18歳のラルフの言葉を思い出していた。
 「僕の好きなユダヤの諺に、神は越えられない試練を人には与えない―とい諺があります。試練は永遠に続くわけではありません。いつか全ては好転し、僕達にも永遠の平和が訪れることを、僕は心から信じています」
     

―完―
 
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